四川忏悔实录心得体会和感想 四川忏悔实录IX读后感言(六篇)

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从某件事情上得到收获以后,写一篇心得体会,记录下来,这么做可以让我们不断思考不断进步。那么你知道心得体会如何写吗?下面我给大家整理了一些心得体会范文,希望能够帮助到大家。

对于四川忏悔实录心得体会和感想一

成都是四川省省会、中国历史文化名城、首批中国优秀旅游城市、国家卫生城市、国家“双拥”模范城。近几年,她又以城市建设和生态环境方面的成就,先后荣获联合国颁发的“人居奖”和“最佳范例奖”两项殊誉。

成都是一座融古代文明与现代文明于一体的特大城市。她是稀世珍宝大熊猫的故乡,也是天府之国的中心和“窗口”。她以历史悠久、文化底蕴厚重,风光绚丽多姿和名胜古迹众多而闻名于世。“锦城”“蓉城”是成都的别名;芙蓉、银杏是成都的市花和市树。

成都市位于川西北高原山地和川中丘陵之间,西部地势较高,中部和东南部是广阔的成都平原,平均海拔500米左右。境内兼有山景、平原和丘陵之美,且气候温和,雨水充沛、年平均气温16℃上下,降水量约1000毫米,素有“冬无严寒,夏无酷暑”之誉,加以土地肥沃,水利先进,物产十分富饶,历来被称为“水旱从人,不知饥谨”的“天府明珠”。

成都市的全市总面积12.39万平方公里,总人口超过1000万人,辖区划为7区4市(县级市)、8县。即锦江区、青羊区、成华区、金牛区、武侯区、青白江区、龙泉驿区;都江堰市、彭州市、崇州市、邛崃市;温江县、新都县、双流县、大邑县、新津县、郫县、金堂县、蒲江县。此外,还设有国家级四川成都经济技术开发区和成都高新技术开发区。我们一般说的成都市区则指市中心部位的五个区,简称为“五城区”。其余的统称“市郊县”。

成都早在一万年前就已成为蜀族先民活动的中心和舞台。在市区和广汉三星堆的出土文物表明,至少在四千年以前,古蜀先民们就用自己辛勤劳动的双手,在这里创造了具有鲜明地域特征的古蜀文明。大约2500年前,古蜀国开明王朝把国都从樊乡(今彭州市、新都县交界处)迁到此处,取周太王迁歧“一年成邑,三年成都”这一典故,定名“成都”。这时的成都已经成为一个初具规模的城市。

公元前316年,秦国把四川纳入版图,成都是蜀郡的首府。自此以后,成都一直是四川地区政治、经济、文化中心,历代皆为郡、州、省一级行政区的治所和军事重镇。其间,成都曾前后有7个割据政权的都城设在此,它们是,西汉末年的公孙述“大成政权”,公元二世纪时“三国”的蜀汉王朝,三世纪的“成汉”政权,九世纪前后的“前蜀”和“后蜀”政权,北宋时期农民起义的“大蜀”政权和明末张献忠建立的“大西”政权。

成都有着悠久而灿烂的工商发展历史,特别是丝织业的发达,名冠中华,远销国外。西汉时期,成都因经济繁荣成为当时中国的“五都”之一,织锦业已成为汉朝的重要国库收入来源。成都是蜀锦织造中心,朝廷在此设置了“锦官城”,派有“锦官”进行管理。这也是成都又称为“锦城”,绕城而过的府南河又称为“锦江”的原因。蜀汉时期,诸葛亮在四川实行休养生息,扶持农商的经济政策,成都作为蜀汉首都得到了更大的发展,从晋代左思《蜀都赋》的叙述可见当时盛况。他说“市廛所会,万商之渊,列隧百里,罗肆万千,堕贿山积,纤丽星繁……”好一幅百货云集、万头攒动的市场交易图!唐代,成都有“扬一益二”之誉,说她的繁华仅次于江南的扬州。

到北宋时期,成都已成为仅次于汴京的大都会。这时的成都,由于在晚唐五代的纷争中处于相对安定的情况下,工农商业都有所发展,商市贸易突破了传统的坊市格局,发展了专门的交易市场,不仅有城内东南西北的综合市场,也有了专营产品的市场,如草市、糠市、盐市、骡马市等,闹市区还有了“夜市”。此后的成都历经元、明、清诸朝和民国时期,其间虽有多次的兴衰起落,但她作为四川省经济中心的地位并无变化。

对于四川忏悔实录心得体会和感想二

佳賓の皆様:

みなさん、私たちの有名な川北古城へ観光に来てください。

langzhangは四川盆地の北部、嘉陵江の中流に位置しています。都市は巴山脈、剣門山脈と嘉陵江水系の合流地点に建てられています。前人は「前控六路の師、後は西蜀の粟、左通荊襄、右出秦隴」と言っていました。昔から軍事の重要な町であり、1986年に国務院が公布したのは全国歴史文化都市の一つです。

今日の旅行のスケジュールは張飛廟と錦屏山を見物して、特色のある古城保護区を見学します。まず、langlangの古城の特色を概略的に紹介させていただきます。

langlangの古代は、まず古い都市の歴史が長いです。langはキューバの都です。史料によると、周武王は巴人の強力な協力を得て、「牧野の戦い」は巴人からなる「虎噴」軍が戦いに出て、「凌殷人倒戈」で勝利したという。周王朝が建立した後に巴人を子の国に封じて、都江州(つまり今の重慶)、楚国の強迫を避けるため、都langlang中に移ります。紀元前3__年秦恵文王が滅亡した後にブラジル郡を置いて、langlang中県を設けます。その後の歴代はすべて郡、州、府、道の治所で、その時の川北政治経済文化の中心です。県を建てる歴史だけで計算して、今なお2300年余りになりました。

第二に、中国の歴史と文化の発展に影響を与えた有名人が輩出し、古跡が残されている。langzhangのこの山水の美しい古城は、歴代の多くの有名人の賢人を引きつけてここに来て観光して止まって、大量の文化財の古跡を残しました。そして古城はもともと霊験あらたで、人材が輩出されているところです。漢の武帝の時に、ここで偉大な天文学者と暦家の名前が生まれました。その後、東漢時代の大気象学者任文孫親子と「三国時代の周舒、周群、周巨祖孫の三代天文学者がいます。前と後の4×年間、langでこんなに多くの業績を残した天文学者は本当に素晴らしいです。また、三国良将馬忠、策士程畿、南宋の抗金猛将張憲、元明の花木蘭式の女性英雄韓三日月、清代の農民蜂起指導者蘭廷瑞などがここで生まれました。ある人は統計しています。夜唐から清の1000年余りの間に、langlangは前後して4つの状元、94人の進士、数百人の挙人が出ました。

langlangはまた革命の古い地区である。1933年に紅四方面軍は立川陝西革命の根拠地を建設し、langlang中地区で3年の間転戦し、lang中、lang南蘇維耶政権を建立しました。19000余lang中の優秀な子供は中国労農紅軍に参加しました。

第三は古城の保存が比較的完備していて、文化財の価値が高いです。改革開放以来、langlangの社会経済の発展はとても速く、都市建設も大きな成果を収めました。同時に、市政府は古城区と文物古跡の修理保護を非常に重視しています。特に現代建築界に注目されている古城の構造は、古風が濃厚な上に百条の古い町並みと群れをなしている四川古民后代には、更に非常に貴重な人文宝です。多くの人が見学した後、いつも「他のところは珍しい」と賛嘆してやまない。

はい、ここまで話してください。張飛廟が来ました。桓侯祠の墓--張飛廟

佳賓の皆様、今見ているのは有名な桓侯祠です。張飛廟とも呼ばれています。張飛、字益徳(翼徳)、東漢末に劉備に従って兵を起こし、兄弟のような仲です。劉備の定益州は帝を量った後に、張飛を司隷校尉に封じて、ブラジルの太守のためにlangの中で前後7年の長い間守ります。紀元221年、張飛は東呉に報告して関羽の仇を殺害することを急ぐため、部下に白兜の白甲を制圧させて、部に范強、張達に殺害されて、langlangの中で葬られて、桓侯に追われます。langzhangは張飛忠勇を追慕し、墓の前に宮城を建てて廟を立てる。唐の時の廟は「張侯祠」と呼ばれ、明代は「雄威廟」と呼ばれ、清代以来「桓侯祠」と呼ばれています。現存する張飛廟は唐代風の明、清の四合院で、山門、敵万楼、鳥居、本堂、脇棟などから構成されています。敷地面積は5000平方メートル以上で、規模は広大で、建築が精巧です。

山門は明代の再建で、正門の上端に掲げられた「漢桓侯祠」の額は最近亡くなった著名な書家趙朴初が書いている。八字形の門を入ると,高くそびえる敵万楼である。「敵万」は張飛の有力な敵である万日の勇をいう。楼は明朝の初めに建てられたもので、軒は山式の屋根で、梅の四角形の柱が四つになっています。両側殿は文化財展示室と群塑ホールです。文物は1000点以上展示されています。この百碑の文字を見てください。「漢将軍飛、精兵万人大破賊首張は全部八蒙で、銘を立てます。」張飛が直筆で書いたと言われています。足見張飛は猛将だけでなく、造詣の深い書道家です。張飛は太さの中に細さがあると世間で言われていますが、この石碑は証拠品です。群塑館では「三国志演義」によって描かれた張飛の主な業績によって作られた六つの彫刻があります。皆さんは「三国志演義」をよく知っています。

正殿に入ると、真ん中には眉を立てて目を見張りますが、顔は堂々としています。どうして王冠を被っていますか?金衣を着て、玉笏の塑像を手に持っていますか?清朝の嘉慶年間に、張飛は「桓侯大帝」と呼ばれるようになりました。塑像の両側には長男の張つぼみが蛇の矛を持ち、功曹馬斉が丹書をささげた。左右の2つの壁は岳飛草書の諸葛亮の「前後出師表」で、堂々とした上品な雰囲気を醸し出しています。

後殿は実に墓亭で、古雅で質朴で、厳粛で際立っています。亭柱の一対の対聯:

先に主に鹿の中原を追うことに従って、北は南の戦を募集して、地は西川だけが帝業を量ります;

残った体は荒塚に移され、春に冬に来て、人はなお千古に忠魂を弔う。

上連は張飛が劉備について一生戦ったと書いていますが、全国統一の志半ばを実現したのは残念です。下の句は彼が死んだ後、この墓は頭のない体だけを埋めましたが、人々はその忠勇を記念する気持ちは千古不滅です。首のない胴は民間伝説があり、張飛が殺された後、犯人の范強、張達二人は首を切って、東呉を孫権に捧げたいです。進身の階段として、船で順長江東下に行く時、孫権が劉備に和睦を求めていると聞きました。これは「頭葬雲陽、体葬langlang中」の悲壮な物語です。

墓亭の下の庵の形にはアーチがあり、座り込んで飛ぶ武体像がある。見てください。これは本物の「ヒョウの頭に環をして、あごの虎須の猛張が飛んでいるでしょう。前に並んでいる盤竜石斗の巣の名前は「長明灯」です。張飛がlanglang中に駐屯していた時、曹魏大将の張?は5万人の大軍を率いてブラジルの首府langlang中に進攻しました。張飛は万人を守っていませんでした。あたごの水路で張合と拒絶しました。前後50日に張飛は現地の人々の支持を得て、梓潼山小路から直接張合大本営を取りました。一番いい石を取って、この「長明灯」に彫刻します。千百年以来、清明節になると、人々は張飛のために墓参りをして、明灯に油を献上します。

張飛墓は高さ約6メートル、周囲100平方メートル以上で、全部黄土で築いています。まるで楕円形の小山のようです。歳月の移り変わり、墓穴は大丈夫です。墓の上で古木の森、青々とした草の青々とした姿は、千百年以来、無数の後代の人がこの勇猛で気丈で、憎らしい「張三爺」に対する敬愛を証明しているようです。langzhouの仙境――錦屏山

ここに来たのはlangzhang市の「嘉陵第一江山」というあなたの錦屏山風観光スポットです。この錦を見てください。山の勢いが起伏し、連峰が連なり、山の木々が青々としています。鳥の花の香り、山の下水流の流れが急な嘉陵江は山のふもとから碧玉のようにうねりながら流れています。山水が溶け合い、美しい清雅な天然の絵を構成しています。例えば、みんながよく知っている唐代の詩人杜甫、李商隠、大画家の呉道子、宋代の文豪蘇東坡、詩人の黄庭堅、陸遊などはかつて錦屏山の風景に魅了されました。杜甫の詩の中では「langzhong城南天下稀」と呼ばれています。ここ数年の観光スポットは修理して整備して、更に新しい風采を加えて、特に自然の美しい景色と歴史の文化のが互いに照り映えて、十分にlangの中で遊覧する古雅な品位を展示して、私達にそれが観光の旅であることを悟らせて、また知識の旅です。今は観光地の中の名所を目印にして、一緒に観光しましょう。

ここはlanglang中杜少陵祠で、杜甫を記念する祠です。杜甫は唐代の宗広徳元年(西暦763年)8月と広徳の二年に二回もlanglangに来ました。家族でここに半年住んでいます。その間に60曲以上の詩を書きました。彼は「lang山歌」と「lang水歌」の中で、langの中の山の「己覚気と嵩華敵」を賛美しています。langの中の水「石黛碧玉相依」。杜少陵祠は山に従って建てられ、唐宋時代の厳かで典雅な風格を維持しました。祠の前室に掲げられた70枚以上の詩と詞の木刻と書画は詩人に対する懐かしさを託しました。本殿は漢白玉の杜甫立像で、文体を練って新章を構想しています。この彫刻はもう古いものではないですが、南宋の愛国詩人陸遊から乾いた道で8年に2回、langlangの中で少数陵祠を拝観した後、「錦屏で少陵祠堂に参拝する」という詩の中で彼が見た杜甫像の風景を書いて、いくつかの印象を受けることができます。虚堂は子杜子を祭って、眉宇は高くて冷たいです。江水を照らして、古来何人を知っていますか?この老は今も死なないです。眉宇の高寒の杜甫は、孤独なのに長く祠の中にいて、後代の人に弔われて、つまり芳名百世を残しました。

一緒に景色を見に行きました。宋烈文侯祠、つまり張憲祠です。張憲というと、見知らぬ人もいるかもしれませんが、岳飛のそばにいる愛将と言えば、知っていることが多いです。張憲は錦つい山のこの一帯の人で、南宋の時岳飛は兵を率いて金に抵抗して、張憲は岳飛の帳簿の下で将に入ります。彼は勇猛で戦いが上手で、赤胆忠心で、功授の副都統制で、岳飛の器重さを深く受けて、そして婿になります。岳家軍が朱仙鎮を直撃し、いよいよ「黄龍を痛飲する」時、宋高宗をはじめとする降参派は岳飛が徽章を迎え、欽二帝を迎えることを恐れた後、自分は皇位を喪失し、12個の金メダルを連発して岳飛班師を召還し、奸臣秦桧は「あってはならない」という罪名で岳飛を謀殺した。紹興11年12月29日(西暦1142年1月27日)、わずか27歳の張憲は岳飛父子とともに杭州風波亭で殺害され、岳墓から遠くない東山港に葬られました。20年後、金兵は再び南に侵攻し、登基したばかりの孝宗皇帝は臣民の抗金を激励するために、岳家軍に対して「平反封」をしました。張憲は龍神衛士廂都の指揮使として追われました。明代、更に烈文侯として封印して、郷里のlang州で祠を建てて記念します。

張憲祠は敷地面積が約30ムーで、座西は東に、三面は山に囲まれています。土地イメージは一つの囲い椅子で、昔の人が祠堂を錦屏山の中腹に選んだところは、一つの「風水の宝地」と言えます。それに、あの威勢の高い青松、青々とした柏、剛柔相済の樟緑楊を加えて、祠の廟を厳重に囲い、更に荘重で静かに見える。張宪の塑像は殿内ではなく、院の中に置いてあります。「意匠独自」の表現でもあります。张宪は功労が高くて、冤罪を被っています。彼が金甲を身につけているのを見てください。左手で剣を押して、右手で腰を撫でて、威厳があります。更に彼の表情を見て、園は怒って目を開けて、まるで聞いています:金保国に抵抗して、罪がありますか?眉をひそめて、岳飛のクラスの先生を説得することができなかったことに対して心を痛めているようです。ここを見て、西子湖畔の千古の岳王の墓と悪名を残した秦桧のひざまずいた像を連想して、私達はいずれも“歴史が最も公正です”“民心が最も公平です”を感じます。

今見たのは星楼で、星楼を見るのはlangzhouの古城の誇りです。私たちは、祖国古代天文学研究の輝かしい星空の中で、langlangの中で星々の争いの壮麗な光景が現れたと言いました。彼は偉大な天文学者の落胤、任文孫父子と周舒祖孫の三代などを懐胎し、誕生しました。中国の天文、気象学に卓越した貢献をした英才は、langlang中を中国漢唐時代最大の天文研究センターにしました。特に世界の天文史には画期的な「太初暦」の作者がいます。蓓霾(紀元前156年——紀元前87年)、字長公、lang中市人、天文に精通し、暦を得意とし、漢の武帝に招聘され、太史まで勅を待つ。一生の中で天文科学に対して最大の貢献は三つあります。一つは「渾天説」を創立して、宇宙は変化していると考えています。二つは「渾天計」を創製して、当時の世界で最も科学的で、最も精密な天体観測器で、星楼を建てました。落胤の天文研究の成果は中国ひいては世界の天文研究に大きな影響を及ぼしている。イギリスの李ヨゼーさんは「中国科学技術史」で世界天文学の分野で「輝かしい星座」だと言っています。

对于四川忏悔实录心得体会和感想三

各位朋友,我们离开美好的卧龙自然保护区,满怀着对大熊猫的恋恋不舍之情,踏上了前往国家级风景名胜区四姑娘山的旅途的必经之路,也是四姑娘山景区的第一站——巴郎山。巴郎山海拔5040米,矗立在阿坝州的汶川、小金和雅安地区的宝兴县三县交界处,绵亘八九十里。此山巍峨雄伟,高人云天,峭壁峻岩,奇险难行。公元1747年,清朝的乾隆皇帝订金川,镇压当地的土司暴乱时,小金土司派兵扼守巴郎山垭口,曾使清军付出了非常惨重的伤亡代价。民间流传的说法是:"走拢巴郎山,性命交给天;走到万人坟,死了又还魂。"可见其险峻程度。今天,我们乘车走在这条1999年才建成的水泥公路上,平稳安全,已经很难体会原来的山高路险,从而有良好的条件来尽情欣赏巴郎山的壮丽风光。因此可以说,现在到四姑娘山旅游的朋友们都是幸运的客人。

这座大山为什么叫巴郎山呢?《懋功厅方土志》说:《巴郎山,一名斑斓山。古称冉龙山",没有解释。但我们从山的柽柳树和居住小金的嘉绒藏族称此山叫"巴郎柱"(意思是桂柳山或红柳山),可以明白巴郎二字的来源。

巴郎山景色十分幽美,云海、杜鹃、典型的植物垂直带谱景观,会使你在翻山途中目不暇接,惊叹不已。

由于我们要从海拔20xx米左右,走到4000几百米的山口,所以能看到巴郎山植物垂直带谱的清晰分布:从海拔2500—3000 米的针阔叶混交林带,进入3000米以上的针叶林带,然后是 4000米上下的高山灌丛草甸,最后是4500米以上的高山寒漠带和峰顶的光山流石。大家可以观景,通过山景植被变化,衡量自己所在的海拔高度。如果此刻是金秋时节,巴郎山不同植物带的色彩变化将会把全山装饰得出奇的五彩斑斓,那才更令人目眩神驰,不忍离去。

现在我们已进入雾区,其实是走进了巴郎山的云层。茫茫云雾,山林飘渺,使人如置身云霄。如果遇上雨过天晴,站在巴朗山垭口,就可以看到巴朗山的浩荡云海。巴朗山的云海有三奇。第一奇是无风云涌动。深谷大壑之中,茫茫白云蒸腾翻滚,波澜壮阔;第二奇是有风云过山。有时看不到白云,眼前大雾弥漫,将你包裹着、簇拥着,轻柔的、如雾的云拂过你的脸,一股清凉的寒意中,似乎听得见云雾流走的声音,风声呼啸,飞云迅疾,再大的山也阻挡不住,向你铨释出一条以柔克刚的道理。第三奇是云海幻境。有时会在山间现出一群楼房,一片湖泊,一群怪兽,千姿百态,蔚为壮观。

垭口处立有牌坊。牌坊上写着:"琼玉硕果案案飘奶香,奇峰翠谷山山尽仙境。"这里海拔高度4850米。也就到了小金县的境内了。左边这座用石头堆砌而成的小庙供着一位既和蔼可亲又美丽善良的白百神"木姐珠",保佑着此山。在小庙的旁边这个百堆叫玛切堆。这个白石堆是羌民族神圣之物。过了垭口,视线比较开阔了。大约再有两个小时的车程就能到达小金县的日隆镇。现在大家可以看到,下山的公路象一条蜿蜒曲折的带子,一直绕到对面的尖子山下。传说尖子山是四姑娘的绣花针变的,不像?它变成一座山当然粗大得多了。

汽车在这里停一下。这里是巴朗山的猫鼻弯,是遥看四姑娘山全貌的最佳位置之一。当然也是以四姑娘山为背景的摄影最佳位置。请顺我指的方向看去,那就是四姑娘山。你看她白玉般的容颜,银光闪烁,亭亭玉立如一位少女,她的脸庞虽然被风雪侵蚀长久,看上去略显憔悴,但俊秀恬静的仪表,秀美端庄的体态,风采依旧。时而有一缕白云象洁白的哈达绕在腰间,云动似山移,四姑娘像一个翩翩起舞的藏家少女,柔美中不乏阳刚之气。与四姑娘相邻,相对矮些的山就是她的三个姐姐。四姑娘害羞,很不容易露面,请大家抓紧时间拍照,以免错过机会。(上车后)四姑娘山位于邛崃山脉中段,川西高原与四川盆地西部盆周山区的交接带上,隶属阿坝藏族羌族自治州小金县,东距成都 220公里,景区总面积为450平方公里,由四姑山、巴朗山和双桥沟、长坪沟、海子沟组成。1994年、1996年先后被列为全国重点风景名胜区和国家级自然保护区。景区内雪峰耸峙,冰川横陈,空气十分清新。自然生态保护良好,植被茂密,生物种类繁多,有金丝猴、扭角羚、毛冠鹿、雪豹、盘羊、黑熊等国家一、二类保护动物30多种,还有"雉类和画眉乐园"的美称。是一处景致奇特,生态原始,别具情韵的风景区。外国的游客惊叹她的美丽,称之为"东方的阿尔卑斯"。

四姑娘山是四座高度不同的女神山。主峰四姑娘山海拔 6250米。为邛崃山脉的最高峰,也是横断山脉仅次于"蜀山之王"贡嘎山(7556米)的第二高峰,有"蜀山皇后"之称。其余3座依次分别为三姑娘5664米,二姑娘5456米,大姑娘5355 米。需要说明的是,大姑娘山只看得见她的身体,所以没有峰尖。1980年秋,四姑娘山对外开放,开展登山运动,1989年7 月3日,日本同志社大学登山队在5次试登后征服顶峰。迄今已有美、日、荷兰、尼泊尔、瑞士、意大利等10多个国家和地区的登山队到四姑娘山登山探险。在日隆镇的四姑娘山景区管理局,就挂满了各国登山队员署名的旗帜和留言。

四姑娘山,嘉绒藏语叫做"斯格拉柔达",意思是保护山神。相传,在很久很久以前,在日隆这个地方洪水泛滥,人们饱受自然灾害的苦难。万山之祖扎依扎嘎为拯救生灵,派遣了三位非常精明能干的山神下凡,他们是斯格拉、阿叶仁娜和都尔麦。在拯救苍生的过程中,阿叶仁娜和斯格拉相爱了。但与此同时都尔麦也爱上了阿叶仁娜。当三位山神完成了拯救生灵的任务之后,阿叶仁娜嫁给了斯格拉,这就便都尔麦陷入了"痛苦和落泊之中"。后来阿叶仁娜为斯格拉生下了四个可爱的女儿,长大成人后更是一个比一个美丽,最小的四姑娘当然是最美最聪明的。她的一举一动重新打动了都尔麦的心。

都尔麦备上礼物向四姑娘求婚,斯格拉拒绝了他。都尔麦再次受到打击之后,便丧失了自己的理性,开始由神转化为魔。都尔麦趁斯格拉和阿叶仁娜熟睡之际,打开了天河,让天河的水奔泻到人间。大地又被洪水淹没。斯格拉和阿叶仁娜化为两座大山,挡住了天河的水。四位姑娘和都尔麦搏斗一番后,选到了外祖母阿妣婆婆那儿。四姑娘为了拯救苍生,同时也拯救都尔麦,留下三个姐姐在阿妣婆婆那儿养伤,自己骑上阿妣婆婆的神雕,找到了万山之主扎依扎嘎。她向扎依扎嘎的儿子贡嘎大哥学习用绣花针编织云朵、风、雨、雷、电等本事。四姑娘不仅美丽,而且非常能干与好学。不久便赢得了贡嘎的喜爱,并给了他一件定情之物——雪山白玉石。又送她三件宝物:一付弓箭;一面日月宝镜;一件变幻无穷的五色百鸟衣。好去降服都尔麦。

当四姑娘返乡时,扎依扎嘎大神给了四姑娘三颗沙棘。要四姑娘找机会给都尔麦服下,这样就能救都尔麦。并叮嘱地,雪山白玉石千万不要吞进肚里,要不然会化成一座山。然后目送四姑娘骑上神雕离去。

四姑娘回到日隆,先放出神雕,通知姐姐和阿妣婆婆。自己穿百鸟羽衣找到了都尔麦。四姑娘试着说服都尔麦,都尔麦根本不听。他们进行了一场恶战,四姑娘一边变化一边打一边劝说都尔麦。都尔麦凶像毕露;又去扒开天河。四姑娘无奈,只得抛出宝镜将都尔麦照住,并用弓剑射中了他。趁都尔麦嚷叫时,给都尔麦吞下了三颗沙棘。此时大地已一片汪洋,万物生灵又处在水深火热之中。沙棘发挥了作用,都尔麦消除了恶性,感到万般惭悔。为了恕罪,便化为一座大山去挡天河的水。可是根本挡不住。于是四姑娘接连抛出了弓箭、百鸟羽衣、日月宝镜,化为一座座大山去挡天河水。阿妣婆婆此时和三个姐姐也骑着神雕过来。阿妣婆婆看水势很大,首先和神鹰变成山挡住了西边缺口,可是东边的缺口仍然很大。最后,四姑娘和三个姐姐牵着手,吞下雪山白玉石,她们一起化为四座山峰,终于挡住了天河下来的洪水。姑娘们以他们博大的爱,让万物生灵重建了自己的家园,让这里处处尽仙境,案案飘奶香。

现在我们己经到达住宿地——四姑娘山的日隆镇。顺便通知大家,这里海拔较高(3160米),大家要注意休息。明天7点起床,7点半早餐,8点出发。祝大家今晚睡个好觉!

今天的目标是:游览双桥沟景区。这条沟全长34.8公里,面积216.6平方公里。由于有两个木桥,所以称为双桥沟。也是目前唯一能够坐汽车进入的一条沟。我们8:40左右即将到达该沟。双桥沟有37条纵横交错的沟壑溪涧,高山雄峙,山水林木十分秀美迷人,是四姑娘山最有代表性的景区。

我们左边这条河叫沃日河,它发源于巴朗山,流经小金县城,流到甘孜藏族自治州的丹巴县注入大渡河。当地老百姓也称它为赞拉河,意思是山神河。总长度为125公里。从日隆镇到小金县只有51公里。小金县原名懋功,解放后以境内的小金川河而改名小金,小金县面积有5582平方公里,人口只有7.26万人。小金的苹果十分有名,近年开发的沙棘饮料也非常好。大家不妨今天回镇上以后去尝一尝,或带一些回去。

小金县是红军长征经过的地方,文物古迹不少。县城有三关桥,建于民国20xx年(公元1920xx年),是一座长60米,宽2米的铁索桥,红军长征时曾经过此桥,现已作为文物保护起来。小金县东南海拔4114米的夹金山,是红军长征翻越的第一座大雪山。还有红军一、四方面军达维会师的"会师桥"和党中央召开政治局会议,确定北上建立陕甘宁革命根据地战略方针?quot;两河口" 会议遗址。这些史迹便小金县载入中国革命的史册而名播四海。

除此之外,小金县的重点文物保护单位还有天主堂,猛固桥、营盘街清真寺、结斯喇嘛寺等。由于时间关系,我就不一一讲述,以后如果有机会到小金县,大家别忘了去看一看。

现在已经到达双桥沟。我们进入的这段峡谷称为阴阳谷,两岸绝壁对峙。山林耸翠。阿妣河从中流过,河宽仅10米,水流湍急。现在太阳已出来了,这边有太阳光照着,而另一边却照不到,真可谓是一阴一阳。这大自然的美昆就全靠大家用心去领会,用爱去拥抱,用眼睛和照像机去捕捉每一处美景了。

过了阴阳谷,我们正面有一座山,那就是阿妣婆婆的神鹰变的山了,请大家下车看看,象吗?

现在大家已进沟8公里,可以看到四姑娘的百鸟羽衣化成的五色山了。也就是大家门票上的山,山顶海拔高度4473米。五色山是阿坝州最典型的褶皱山,因地壳运动形成巨大的山体在一条约1公里长,由赤、黄、青、兰、白五色镶成一个大半圆彩弧岩层,色彩排列近30层,非常规则,又象古树横切后现出的半圈年轮。每当太阳正照时,它便会反射出五道淡淡的光晕。尤其是雨过天晴,五色山就会清晰地现出一条彩弧,非常神奇。

请大家注意看我们两边的株形特别漂亮的绿树,它们就是被称为维c之王的沙棘树,双桥沟的沙棘树不仅仅成片成林,生长茂密,而且特别高大,很多人认识的沙棘树是粗不到碗口,高不过五米,这里的沙棘树却有不少粗大到一人合抱不住、高出七八米的"沙棘王"。一走进沙棘林,那碧绿泛光的伞状树冠,虬曲傲岸的黝黑枝干,营造出景区亮丽的风景。如是秋天,树上密密排列的金色果实,如寒冬腊梅怒放,更是让人兴奋不已。请大家继续上路,再往前去还有很多处风景如画的沙棘林等着各位呢!

这片沙棘林的上方就是日月宝镜岩,请大家顺着我指的方向看,对面山色像古铜色、白色和黄色的石头相嵌在山间,好似一面镜子的镜架,而峰顶上那巨大的四方形岩石、平整如镜,中部一条巨大的裂缝将镜面一分为二,这就是四姑娘的日月宝镜变化的山岩,由于峰高海拔4800米,镜面多数时间积雪不化,阳光、月光照射下,就会出现金光万道或者寒光四射的壮观景色。

我们面前这个上千平方米的宽阔草坡叫人参果坪,因生长人参果而得名。人参果,藏语叫觉玛,长在草根,大小不一,味道鲜美甘甜,可以食用,也可入药,能益气补血。人参果坪的风景 十分美丽。草坪上绿草如茵,星星点的小花点缀其间;曲折盘绕的河流泛动着清亮的波浪;河对面山坡上千姿百态的绿树,掩映着银白滚动的小溪,几支野牧的看不清是小羊还是小猪,悠闲地在溪边移动着……。多么宁静、多么清纯的大自然景色!难道还不值得你举起像机,把它同你一起留下来吗?如果你穿上沟民们专门准备的民族服装,牵着一匹马或者傍着一头牦牛摄影,那味道就更绝了。

那是金枪岩,距沟口约17公里,海拔5472米。山峰如古代兵器的金枪。它在山中独峰高耸,大有"刺破青天锷未残"的气势。传说是四姑娘神弓箭变的,也说是后面猎人峰的打猎武器变的。民间传说总是把四姑娘山山水水都与四姑娘降魔除害的故事联在一起,以表示对造福生灵的神的崇敬。

这里叫撵鱼坝。上百亩的草甸伸向山沟,坝上一条曲折迂迥的藏式木栈桥供大家步行观景,青草萋萋,野花遍地,山水相融,草木增辉,四周一片安静,仿佛世外仙境。栈道尽头处就是牛棚子。顾名思义,那本项土墙的藏房就是牧人之家。现在也是旅游者不想和午餐的一个接待点,走了这么远的路,进去坐一坐,品尝主人为我们准备的鲜奶子、酥油茶,吃一吃喷香的牦牛肉和藏民自制的烧漠漠,这是双桥沟特有的风味餐,千万不要错过。

右边这座山,有一条红色的岩石,好像是流淌的鲜血染成的,传说是大姑娘砍头的地方。因为山形象一个硕大的牛心,又叫牛心山,海拔4942米。四姑娘山区这种红色的岩百很多,据说是石上寄生的一种虫类,也有的说是一种藻类,究竟是什么? 有待考证。

过了鹰咀岩,前面就是阿妣山了。阿妣婆婆是四姑娘的外婆,海拔5033米。你看她头顶藏式头帕,满面皱纹,背部微驼,像一位庄重慈祥的藏族老人。山腰上部那道灰暗的冰带是第四纪古冰川,比较莹白光亮的就是现代冰川。

朋友们,双桥沟游览就走到这里了,前面的景观就在此眺望吧!明天,我们将游览长坪沟,那里只有山径和马道,可以骑马进沟。密林古道、嘉绒藏寨,景色更显原始生态美,也是攀登四姑娘山的登山通道。希望大家今晚休息好,为明天的行程作好准备。

对于四川忏悔实录心得体会和感想四

各位游客,大家好!欢迎大家来到世界文化遗产地都江堰。我是你们的导游。

我们今天的游览路线是,从秦堰楼下去,依次参观二王庙、安澜索桥、鱼嘴、飞沙堰、宝瓶口等,最后我们在离堆公园门口集合登车。整个行程大约需要两个小时。在游览过程中,请大家爱护景区环境,紧跟团队,以免走失;同时,希望大家记号我们的停车位置和车牌号,以及我的联系方式。

先为大家介绍一下景区概况。都江堰修建于公元前256年的秦昭王时期,蜀郡首李冰率民众耗时约20xx年修建而成,距今已经有20xx多年的历史,是世界上年代最久远,并且依然发挥巨大效益的无坝引水工程。难怪余秋雨先生会说:“我以为中国历史上最激动人心的工程不是长城而是都江堰”。

都江堰工程由鱼嘴、飞沙堰和宝瓶口三大部分组成。现在我暂且不讲飞沙堰如何排水防洪,也不讲宝瓶口怎样控制水量。重点给各位讲讲都江堰的渠首部分鱼嘴。大家顺着我手指的方向看去,位于江心位置形如鱼嘴的就是鱼嘴分水堤。

鱼嘴为都江堰水利工程奠定了至关重要的三大基础,我个人对它做一个总结,就是巧夺天工的一个“巧”字!

第一个巧:分四六,平涝旱。

大家请看,面对滚滚而来的岷江水,河床中央的鱼嘴将它一分为二:一条外江继续担任主河床的作用;一条内江为都江堰新建的引水道。当年李冰特别将内江的河床深度挖到低于外江河床三尺三,又使外江的河床宽度宽于内江河床九丈九。这样一来,岷江水流量小的时候,六成的水就流入内江,保证了成都平原的农业灌溉用水。到了洪水季节,岷江水流量大增,河床宽广的外江就会容纳近六成水流量,以免成都平原遭受洪涝之灾。这种功能就是二王庙石崖上刻着的六个字—-分四六,平涝旱。

鱼嘴的第二巧,就是它发挥了排沙排石的功能。

由于都江堰处于岷江中游,所以,上游大量的沙石顺流而下。根据河水在弯道处的环流原理,江水冲击在弯道的崖壁上会产生漩流,将下层的沙石卷到水流表层;并且,水流越大卷起的沙石越多,因而大部分的沙石都会自动被带到外江而不会进入内江。同时,鱼嘴又处于“正面取水,侧面排沙”的理想位置。因此 80%的沙石就会从这里排走,这样就大大的减少了内江淤塞之害。

第三个巧:中流砥柱

大家设想,在没有钢筋水泥的两千多年前,眼前这个固若金汤的鱼嘴堤坝是用什么材料构筑的呢?李冰巧妙的使用土石和装有卵石的竹笼,互相连接,形成堤坝。因为用料简陋,历朝历代有不少人想要改变工程用料。元代官员曾在鱼嘴这一关键部位铸造一个一万六千斤的铁龟;明代地方官又以铁牛镇守鱼嘴,但是都被洪水冲走,以失败告终。直到明代御史卢翊巡查四川考察水利时提出,只有李冰用竹笼装卵石的古法才符合以柔克刚的自然规律。把竹子编成竹笼,用竹笼装卵石,层叠堆垛,连接成坝才能减少堤坝断裂的可能,加上卵石之间的空隙可使水缓慢渗出,也就减少了溃坝的危险,从而形成既坚固耐冲又不积水的堤坝。同时,由于工程修建时不追求一劳永逸,取材因陋就简,所以每年的岁修又可使都江堰实现持续更新,体现了因势利导朴实无华的东方思路。

当然,仅有鱼嘴的作用是不够的,都江堰的三大工程是相互依存,共为体系的。

对于四川忏悔实录心得体会和感想五

欢迎各位来到都江堰市游览。现在我们的车正经过宽敞平直的幸福大道转上玉垒山公路,去参观闻名中外的都江堰景区。

大家从成都来,都看到沿途纵横交错的河渠,奔涌着盈盈清水,流淌进远近碧绿的田畴,那就是都江古堰的灌渠。两千多年以来,古堰把滔滔东泻的岷江水引到广袤的成都平原,造就出“天府之国”的富饶和美丽。

在此以前,由于成都平原的地势是西北高,东南低,从高山连绵的松茂峡谷中汹涌而下的浩荡岷江,一到涨水季节,总是顺地势四下漫流,常常给平原生息的远古生灵带来可怕的洪涝灾难。后来经过距今大约三千年前的鳖灵治水,才使这片土地初步得到平安。鳖灵的巨大功绩,使蜀王杜宇把王位让给了他,成为开明王朝的第一位蜀王。

而真正把岷江引进平原,缔造了“益州天府”的大功臣,则是公元前三世纪的蜀郡太守李冰。是他带领人民群众建造了举世无双的都江堰工程,非常科学地实现了导江、防洪、引流灌溉的一系列功效。其后,由于都江堰水利受到历代统治者的重视,设置专门的官员管理,前后有不少为政高明的管理者,又在管理和维护中不断地将积累的经验变成规范性的典章制度,使都江堰历经两千多年一直发挥着巨大的水利功能。因此,说都江堰是孕育出四川天府的第一奇功,闪射出中华民族智慧之光的典范,是毫不夸张的。新中国成立以来,都江堰可说是古堰逢春,灌溉面积已由建国时的200万亩扩展到1000多万亩。都江堰能有此千古长效的伟大功能的奥秘所在。

我想这也是各位今天游览的目的吧!现在,我们走上了景区公路,沿途森林夹道,空气清新,使大家的旅游有了更好的心情。我们从观景楼往下游览。

都江堰鸟瞰

站在楼台的敞廊上远看都江堰的水利工程,可以看见岷江从山里滚滚而来,在拐弯处被一条像鱼头的长坝一分为二,堤坝这边的江水顺玉垒山脚流到一座孤立的山头前,堤坎矮下去了,而水流都靠着山这边走向远方,这就是都江堰的渠首工程。长堤的头部叫鱼咀,堤尾矮下去那段叫飞沙堰,孤立的山头和玉垒山之间的水道叫宝瓶口。鱼咀、飞沙堰、宝瓶口是都江堰的三大主体工程,鱼咀用于分水,让灌溉的水进内江,多余的水走外江;飞沙堰用于溢洪排沙;宝瓶口用于引流入渠。就是这三部份工程的巧妙配合,奠定了都江堰千古长存的“不坏金身”。今天我们看起来,它们是那样的简单。甚至觉得平凡。其实正印证了—句“伟大出于平凡”的格言。都江堰渠首工程蕴涵着极大的科学性,其设计和建造所体现的认识自然和利用自然的水平之高,即使是二千多年后的今天,仍然可以称之为最高水平的成就。等一会我们到了现场再作详细介绍。指物说理,可能比较容易说明白一些。现在我们去看二王庙。 二王庙

二王庙座落于玉垒山麓,是纪念都江堰修建者李冰父子的庙宇。这座庙宇原是纪念蜀王杜宇的“望帝祠”;南北朝时迁“望帝祠”于郫县后,为表达对李冰父子功德的崇敬之意,后来这里就被更名为“崇德庙”;宋朝,由于李冰父子相继被救封为王,便改崇德庙为“王庙”;到了清代,才正式定名为“二王庙”。

二王庙的建筑有五大特点:一是占地少,仅10072平方米;二是建筑密度高,达到60%;三是不强调中轴对称,这与大多数中国古建筑的基本特点相悖;四是上下高差大,有63米;五是规模宏大,布局严谨,令人赏心悦目,这五大建筑特点我们将边参观边体味。

我们从二王庙的后山往下走,经过存放商代古木和供奉元朝地方官吉当普的亭阁。穿过有两株“仙人松”的庭院,就到达庙宇的文物陈列室。在这里有我国两位著名画师的真迹镌刻在石碑上,他们的名字可谓是家喻户晓,要问是哪两位?其实不用我在这里多说,大家一看画就知道了,这仕女图是张大千先生画的,这奔马自是徐悲鸿的杰作。大家再看左边的这个碑,谁能认出这是什么字? ——这本来也不是字,是用来降魔镇妖的道符,也难怪大家和我一样“一字不识”。 与陈列室平行是二王庙后殿,现在塑的是李冰夫妇的神像。由于李冰父子的丰功伟绩,后人早已将他们神化了。我们在二王庙中参观,自然知道二王是指李冰父子,但我们却见不到李冰儿子李二郎的塑像。“二郎”是神话中与李冰关系最密切的一人。这个角色的出现,把李冰神话的故事情节又推进一个新阶段。但史书从未介绍过李冰儿子,所以李二郎只不过是个传说中的人物。我们都有自己崇拜的偶像,有人崇拜毛泽东,有人崇拜拿破仑,有人则祟拜刘德华,当时的人却非常崇拜李冰。偶像又都应该是完美的,李冰没有儿子,在封建时代有这么一句话“不孝有三,无后为大”,李冰倍受蜀人尊敬和崇拜,自然人们都希望他有一个英雄的儿子,能替他传宗接代,李二郎这个人物也就由此而产生了。

李二郎这个人物的原型可能是跟随李冰一起治水的年青人。李二郎代表的不是真有这个人,也不仅是治水的年青人。而是代表了所有和李冰一起治水的堰工的形象。

大殿就是李冰殿。大家知道,战国时期是一个产生杰出人物的时代。比如墨家墨子,法家的韩非子,儒家的孟子等等。李冰也是这个时代的杰出人物,诸子百家也应有水利家的一席之地。李冰是一名政治家,更是一名杰出的水利科学家。 李冰是先秦时期的蜀郡守,相当于现在四川省省长的职位,但蜀郡当时所管辖的区域比现在的四川要小。李冰一方面因为一心为民办实事,多才能干,治蜀有方,受到秦王的信任;另一方面,他信任群众,依靠群众,用比较现代的话来说,便是“走群众路线”,所以得到广大人民群众的拥护和爱戴。只有处理好对上和对下的关系,他才能任职四十年,办了许多实事造福于民,所以承认李冰是一位伟大水利专家的同时,我们必须得承认,他也是一位杰出的政治家。在这尊塑像中,李冰儒雅仁厚、勤于政务的风貌得到了淋漓尽致的展示。

李冰殿是一座四合院式建筑,殿的对面是戏楼。戏楼顾名思义就是唱戏的地方,不过这戏不是唱给凡人看的,而是唱给已被供奉为川主神的李冰看的。每年的农历六月二十四这天,是二王庙庙会,明清时代,每到这一天,这里都要唱戏,人们赶庙会敬神、祈福、看戏,甚为热闹。1992年后,赶庙会的风俗又重新恢复。

这座塔是“字库”,烧纸钱的地方。农历六月二十四庙会的这一天,这里总是热闹非凡,人们会把纸、钱一些歌颂或赞扬李冰的字、画从底层塞入燃烧,塔心中空,青烟直上,塔尖有两只蛤蟆,大家看清楚了没有?烟就从蛤蟆嘴中冲出,直上云霄,这样天上的李冰就可以知道人们对他的评价了。从戏台下面走出大门,一条高陡的石阶梯,把庙宇显得巍峨耸高,返身上看,这隶书“二王庙”匾额,为民国三十年(公元1941年)冯玉祥将军来都江堰时写的,在这里拍照较有纪念意义。

再往下走,林荫深深的阶梯旁,摩崖雕刻着历代积累的都江堰维修治理的经验总结,字句精炼,涵义准确,很有科学价值。比如:这是岁修都江堰的“六字诀”——深淘滩、低作堰。“低作堰”是说飞沙堰不能加高,这“深淘滩”的“滩”指的是凤栖窝(也就是飞沙堰对面淤起的浅滩)的一段河床,在每年枯水季年节岁修清淤时,要深淘。深到什么程度呢?最早水下埋的是三个石人马,以前以涨水不过肩部,水枯时不低于人的足部为标准。现今淘滩,以看到四根卧铁为标准,这四根卧铁分别是明、清和民国时期以及解放后的九十年代埋下的,只要看见四根卧铁就行了,淘得过深,宝瓶口进水量偏大,会造成涝灾;淘得过浅,水量不足,难以灌溉。

这边的“遇湾截角,逢正抽心”称为八字格言,是治理岷江和解决灌区输水及疏通排洪河道的方法,也可以说是一切治理疏浚河道的通则。“遇湾截角”指岁修时遇河流弯道,在凸岸截去锐角,减缓冲势,使其顺直一些,减轻主流对河岸的冲刷,“逢正抽心”就是遇到顺直的河段或河道叉沟很多时,应当把河床中间部位淘深一些,达到主流集中的目的,使江水“安流顺轨”,避免泛流毁岸、淹毁农田。石刻的经验还有很多,有的我们在游览中再作解释。 前面这小楼叫“乐楼”,是清代典型的仿道教建筑,每逢清明节放水,要举行隆重的“放水典礼”,成都的大官员来时,这里就奏乐迎接。乐楼的雕塑和装饰非常精美,通过谐音、会意或直书其字等方法,反映了道教中讲究清静无为的修炼和吉祥如意、健体长生,羽化登仙等题材。色调上给人以亲切、明快、素雅、安祥之感。乐楼左、右两边分别塑的是汉代的文翁和三国时期的诸葛亮。他们都是发展和保护都江堰水利工程的功臣。文翁穿湔江以灌田,诸葛亮派马超率一千二百名士兵保护都江堰。

安澜桥

走出二王庙,看到的就是都江堰,也就是岷江的内江,架在江上的铁索桥,就是著名的安澜桥。请大家随我过桥去鱼咀参观。

安澜桥是我国著名的五大古桥之一,全长320米。最早称绳桥或竹藤桥,这与它修建的材料有关。到了宋代,改称“评事桥”,明朝末年毁于战火。清嘉庆八年(1803),何先德夫妇倡议修建竹索桥,以木板为桥面,旁设扶栏,两岸行人可安渡狂澜,故更名“安澜桥”;民间为纪念何氏夫妇,又称之为“夫妻桥”。它是沟通内、外江两岸的交通要道。

桥的原址本来在鱼嘴处,1974年因兴建外江水闸,经国务院批准,将索桥下移了—百多米,改用钢索建造。索桥是我国古代人民为征服高山峡谷,急流险滩,利用本地竹木资源创建的悬空过渡桥梁形式之一,是世界索桥建筑的典范。现在就让我们一起走过这晃晃悠悠的桥,去体味如履簿冰的感觉吧,过索桥可是游都江堰最有乐趣的项目之一呵!

鱼咀

大家已经知道,鱼咀是都江堰工程的主体部分。站在鱼咀的坝口,看岷江迎面而来,经鱼咀一隔分为两股,即外江和内江。鱼咀就是分水堤的头,为什么要修在这里呢?起多大作用呢?这就要回到二王庙石崖上刻的“分四六、平潦旱”的两句话上了。

鱼咀主要起分水作用。李冰修建鱼嘴,因地制宜,充分利用了韩家坝的稳固性和分水作用,并在此基础上加工而成,事半功倍,用形似鱼嘴的堤坝,把岷江水一分为二,分为内江和外江。由于这段河道的河床外高内低,再加上正有一个弯道,所以鱼咀分水后在春耕季节江水流量较小时,主流就有约六成的水进入内江,首先保证了成都平原的农业灌溉用水。洪水季节,流量急增,水位大幅度提高,水势受河床弯道的制约明显减少,再由于外江一侧江面较宽,内江—侧江面较窄,内江的流量会自动低于外江,进水约四成,这样又在很大程度上解决了成都平原的防洪难题。这种功用便是都江堰三字经中所说的“分四六、平潦旱”。

鱼嘴还具有一定的排沙排石功能;岷江是长江最大的支流之—,它发源于我省松潘县境内,全长760公里,源头至此约340公里,基本上算中上游,每年大量的沙石顺流而下,根据弯道环流原理,江水在弯道产生的漩流,会将下层的沙石卷到水流上层,大部分便自动被带入外江一边而不进内江。鱼嘴正处于“正面取水”“侧面排沙”的理想位置。80%的沙石从这里排走,大大减少了内江淤塞之害。

现在的鱼咀已是钢筋混凝土建筑,在从前它可是土石做基,用卵石竹笼护堤。就是用川西盛产的竹子编成长长的竹笼横置坝边,里边塞满河边冲积的卵石,一笼接一笼,一层接一层,造成了坚固耐冲又不积水的堤坝。就地取材,方法简易而效果极好。 紧接鱼咀的这道长堤叫金刚堤,每年内江淘河起来的泥沙就用来堆积加固堤坝,既保证内江护岸,又解决了泥沙的出路,这就是岁修“三字经”上说的“挖河沙,堆堤岸”。

飞沙堰

金刚堤尽头处成了一个斜坡,然后是一道矮坝,这就是飞沙堰了。

飞沙堰,是都江堰水利工程的第二个主体工程,这堰修在离堆之侧,是一道低坝,堰顶距河床仅2.15米。它的主要功能是为内江泄洪排沙。从鱼嘴分进的内江水,被离堆一顶,自然旋流起来,每当夏秋之季水流量大于宝瓶口的可流量时,宝瓶口不能通过的水,主要从飞沙堰泄出,而且旋流所泛起的泥沙也就从飞沙堰一齐流出去。“飞沙”二字的意思就在于不仅溢洪还能排沙。

测量资料表明,内江流量越大,飞沙堰的泄洪能力越强。特大洪水时,从鱼嘴分进内江总干渠的流量可达宝瓶口流量的四倍。75%的内江水可从这里泄出。当枯水季节,水位低于飞沙堰时,它便成了一道天然节制闸,自动失去了泄洪功能,保证了成都平原的灌溉。资料还表明,在飞沙堰第二次利用弯道流体力学原理,排走江水含沙量的约15%。鱼嘴已排沙80%,流向成都平原的水流含沙量就只占5%左右了。

宝瓶口

宝瓶口是都江堰系统工程的关键环节。宝瓶口是内江水进入成都平原的咽喉,犹如瓶口一样,严格控制着江水进人成都平原的流量,当宝瓶口的进水量饱和(约700立方米/秒)后,无论岷江发生多大的洪水,宝瓶口也拒之“口”外,概不容纳。这种稳定的进水量,对成都平原的农业、灌溉、防洪、运输等都产生了特大效益。

宝瓶口旁的这小山叫离堆。

选择在宝瓶口位置开凿离堆是极其科学的。它使内江水经过一段流程后水势便于控制,水质进一步澄清,然后被迎面独立的离堆顶托江水,创造了飞沙堰泄洪排沙的功能和宝瓶口的瓶颈效用。保证了成都平原的防洪和灌溉。所以说,在宝瓶口位置开凿离堆,决定了整个渠首工程的布局。两千多年前的李冰能利用岷江和玉垒山的山形水势,设计出这样妙绝古今的水利枢纽工程,是何等的了不起!都江堰所展示的我国古代水利科学水平,难道不值得我们为之感到自豪,感到振奋吗!

离堆公园

从飞沙堰前行是离堆公园。

离堆公园是都江堰的市内入口,也是市区最美丽的园林,奇花异木、盆景艺术、丛林幽径、处处让人留连。其中有两处我认为是必去之地,那就是伏龙观和新辟的文物陈列馆。

伏龙观就建在离堆上,因“二郎擒孽龙”的神话而得名。伏龙观的前身名叫“范贤馆”,始建于公元4世纪,是纪念成汉时(公元302—347年)青城山天师道首领、天地太师西山侯——范长生而建。因范长生被人称为“范贤”,这馆因之而命名为“范贤馆”,五代十国时,李冰先后受封为“大安王”和“应圣灵感王”,在此修李公祠。又因宋代民间传说的二郎伏龙,最后定名“伏龙观”。

走上四十二级台阶后,便可见右方的一碑“离堆”。抬头看右前方的山头,那便是玉垒山,李冰当时修建都江堰水利工程时,首先开玉垒山,引水灌田,便使玉垒山的主峰和我们脚下的这块山丘分隔开了,形成了一个孤立的小山堆,这便是离堆的由来。左侧并排立着11块石碑,依次为“神禹峋嵝碑”,“道都符碑”和“佛教梵文碑”,意在借助儒、释、道三教的神力以镇水,通称“镇水碑”。也有说镇水碑不是镇水,而是镇压下面的孽龙的。孽龙若没有上面碑的神力镇压,便又会兴风作浪。

伏龙观前殿,供奉的是李冰神像。神像是东汉末年(168年)石刻像,像高2.9米,重4.5吨。于1974年修建外江江闸才从河床中捞出来。因石像卧在江中,胸前文字清晰可见。中间有文:“故蜀郡李府君讳冰”,两袖有文:“建宁元年闰月戊申朔二十五日都水尹龙、长陈壹造三神石人镇水万世焉”这段文字表明,此石刻像雕刻时间是东汉灵帝建宁元年(168年)闰三月二十五日,迄今已有1800多年了。

都水是东汉郡府管理水利的行政部门。是郡太守府的椽史,他代表郡太守常住都水官府。旁边这尊缺头人像大概就是当时的都水,由于岷江中上游沙石含量大,头给撞毁了。他没有头,却依旧把当时的治水工具“锸”握得紧紧的,足以证明他治水的决心与信心。在那时,官员们腰间的绶带分别代表他们官位的大小,他腰间绶带并不长,反映了他在当时的官位并不大。据推测,他的官位相当于现在都江堰管理局局长。 前殿的另一侧,陈列着都江堰市出土的汉墓石刻,其中有石俑(有趣的是,他手中所持的工具也是“锸”)、石马(个头矮壮矫健的川马)以及石刻水塘。眼前的石人石马是汉代仿李冰治水时留下的文物雕凿成的。古书记载,造石俑放入内江江心,在淘滩的时候,以石人(马)为标准,低不过足踝,高不过肩,以保证岷江江水既造福于民、灌溉良田,又避免水量过大造成成都平原水灾。当然,在后来以卧铁代替石人石马,石人石马便成古迹了。

石刻水塘展现了建都江堰后,农田自流灌溉的繁荣景象和庄园主的生活。要请大家注意的是石刻水塘之间的凹槽,这些凹槽中间是一些闸,这些闸用于控制田间进水量,如实反映了都江堰的“自流灌溉”,是与水利相关的汉代石刻艺术瑰宝。 沿着天井的石阶进入中殿,原名铁佛殿,现为文物陈列室,展示有关李冰修建都江堰的文物、文献和中外嘉宾在伏龙观的留影和题词。

后殿原名玉皇殿。殿四周均有回廊,视野开阔,移步换景,山光水色令人陶醉。左侧开阔处有一亭子,名“观澜亭”,在这里可见内外江奔腾呼啸,脚下的离堆此时更显出“中流砥柱”的气势。

离堆是当年李冰在此处开凿的一个引水口。早在20xx多年前的秦国,还没有火药,而且铁器的使用也较落后,这玉垒山又属子母岩(砾岩沉积岩),结构十分坚固,要人工开凿缺口确实是一件不容易的事。但人们的智慧是无穷的。于是想到了用“火攻”的方法,先用柴火焚烧岩石,使之炽热,然后浇水醋。凿去一层,再烧一层,如此反复进行,终于在八年后,开了—个宽20m、高40m、长80m的缺口,这口子使玉垒山分出了离堆,也建成了宝瓶口。据传,在开凿宝瓶口时,李冰不仅身先士卒,奋勇当先,同时李冰的女儿“冰儿”也为之英勇献身。当宝瓶口还差最后一层岩墙就可打开时,每人都知道开这层岩墙的人便必死无疑。“冰儿”却毅然要求去,宝瓶口凿开了,可“冰儿”却被滚滚的江流吞食了,人们说她死后羽化成仙,神灵便附在玉垒山上,从远处便可见“冰儿”安祥地仰卧在玉垒山,日日夜夜地守护着这千年古堰。

现在,我们原路走出伏龙观,去参观都江堰文物陈列馆,里面关于都江堰水利工程的大量史料,将加深你对古堰的认识。陈列馆关于青城山等地的资料,会使你对都江堰市丰富的旅游资源有一个比较完整的了解。

对于四川忏悔实录心得体会和感想六

公元720xx年,雄姿英发的青年李隆基在长安接受父亲唐睿宗的传位,正式成为这个庞大帝国的最高决策者,他就是著名的唐玄宗。与此同时,一个男婴降生于唐帝国属下的河南巩县,男婴取名杜甫,字子美。唐玄宗统治中国四十四年,共使用三个年号,即先天、开元和天宝。粗略地分,开元年间——从公元720xx年到741年,是唐玄宗励精图治并创造了被称做“开元盛世”的黄金时代,而天宝年间——从公元742年到756年,是唐玄宗疏于政事、奸臣当道,终于导致安史之乱的黑铁时代。

和盛唐大多数文人一样,年轻时的杜甫把大量的时间和精力花在了行万里路之上,他漫游吴越和燕赵,并与李白和高适在漫游中相交,从此成为相亲一生的知己。青年时代的杜甫除了诗情勃发,同时还具有远大的政治抱负。天宝六年,即公元747年,唐玄宗诏令天下通一艺以上者到长安就选,杜甫以为机会到了,兴致勃勃地前往应试。然后奸相李林甫、杨国忠擅权朝中,怕贤才入选威胁己位,竟然弄出一个无一人及第的结果。对这一荒唐的结果,他反而上表唐玄宗,祝贺“野无遗贤”。杜甫的人生惨遭沉重打击,之后便是被他悲哀地称为“朝扣富儿门,暮随肥马尘”的十年长安旅居生活。十年里,她不断给达官贵人投诗献文,企图得到赏识和推荐。

直到天宝十四年(公元755年),杜甫才被任命为河西尉,这个卑贱、且必须直接欺压底层百姓的职务,被杜甫拒绝了。这是一个重要的细节,从这个细节可以看出他和他的朋友高适的不同性格。高适也痛恨出任县尉,但恨归恨,他到底还是赴任了。这种往好里说叫做能屈能伸,往坏里说叫做得过且地的性格,显然要比杜甫的固执更合时宜。后来高适在政治上飞黄腾达,成为唐代诗人中仕途最得意的人,又一次证明了性格决定命运的道理。

公元756年,“安史之乱”爆发了,杜甫不得不携家带口加入到逃难的人群中。听说太子李亨在灵武继位,他立即前往凤翔投奔唐肃宗,要求杀敌立功,报效国家。唐肃宗见这个衣衫褴褛的男子慷慨陈词,就任命杜甫为“左拾遗”。虽然品级只是从八品,但专门负责为皇帝上陈谏言,职位较重要。这是命运给杜甫的一次重要机会,可惜这个机会被他耿直的性格给毁掉了。在他上任不到一个月的时间,一件意想不到的事情发生了。当时朝中的丞相房琯是个贤臣,因其兵败,肃宗听信谣言罢免了他的官职,杜甫直言为他辩护,给皇帝提意见说:这么好的丞相你不任用,难道还想重蹈任用李林甫、杨国忠的覆辙吗?皇帝一听,气得半死,差点就下命令把杜甫拖出去斩首。杜甫因此事得罪肃宗,而被贬华州。

公元759年冬天(12月),官场失意、政治抱负破灭的杜甫开始考虑举家迁往成都。杜甫萌生入蜀的想法,大致有三个方面的原因。一是中原战乱,民不聊生,继续呆在那儿已不是明智的选择;二是蜀中安逸的生活、封闭的地理环境以及美丽的自然景区都使诗人心生向往,加之唐玄宗避安史之乱,首选之地也是蜀;第三,恰好这时杜甫有个朋友在四川做官,这人就是剑南西川节度使严武,他曾屡次捎信叫杜甫到成都来。杜甫经过认真的考虑,终于定下了这次行程。由陇西(今甘肃南部)经天水同谷入蜀,在崎岖的山岭和险恶的栈道上行走了一个月,终于抵达梦中的成都。杜甫靠亲友资助,在成都浣花溪畔选择了一块空地,搭建起几间茅屋,屋前屋后种上一点蔬菜,过上自给自足的田园生活。以后的日子,杜甫沉浸在成都安闲和舒适中。他曾游逛武侯祠,写了一首十分著名的诗《蜀相》:

丞相祠堂何处寻,锦官城外柏森森。映阶碧草自春色,隔叶黄鹂空好音。

三顾频烦天下计,两朝开济老臣心。出师未捷身先死,长使英雄泪满襟。

自760年到765年,其间除流亡今四川三台,阆中一带一年多以外,诗人先后在此居住了近四年,写诗两百四十余首,其中包括《蜀相》、《春夜喜雨》、《闻官军收河南河北》、《登楼》、《茅屋为秋风所破歌》等名篇。广德二年(即公元765年)5月,杜甫随着年龄的增加,思乡之情也与日俱增,这一点在他的《闻官军收河南河北》中有明确的表述。蜀地虽然以它的山水和温情慰藉了诗人的心,但诗人还是很怀念他的故乡,如今故乡的战事已经结束,年过半百的诗人终于下决心回家看一看。于是,他携家经水路出蜀,至夔州(今重庆奉节)又滞留二年。出三峡后飘泊于荆、湘,以舟为家。当船停泊在岳阳楼下时,杜甫的病情已经相当严重了,家人们把他搀扶进当地的一家客栈,一边安顿下来,一边用所剩不多的银两去四处买药。在这举目无亲的他乡客栈,没有人知道这个贫病交加的老人是谁,也没人知道他骨瘦如柴的手曾经写出过多么壮美的诗句。一人伟大的灵魂就这样凄凉地安息在岳阳的客栈里了,享年59岁。在他去世前不久,写下了他的绝笔长诗《风疾舟中伏枕书怀》,诗中,他回顾了不堪回首的一生,末了,依旧对国家的前途忧心:“战血流依旧,军声动至今。”他对所忠诚的国家如此牵挂,然而他爱国家,国家却不爱他。

他的一生就像空旷午夜划过天庭的流星,虽然以耗尽生命获得了一次耀眼的闪亮,却没有人去赏识和热爱。这个星空下寂寞的老人,除了给我们留下那些气雄天下的诗歌,就只有三座纪念他的草堂。令我们四川人自豪的是,杜甫漂泊的足迹印满了大半个中国,但纪念他的三座草堂却都在四川,它们分别位于成都、三台和重庆奉节。三座草堂,都是记录杜甫晚年的生活,而成都的杜甫草堂,无疑是三座草堂中的龙头。人们为了纪念这位伟大的诗人,早在唐末,韦庄就在遗址上重建草堂,以后经历历代十多次培修,到清嘉庆十六年(1881年)重修完成时,基本奠定了今天博物馆的规模。杜甫草堂博物馆主体是由五重中轴线上的建筑组成的,分别是正门、大廨、史诗堂、柴门、工部祠,另外还有碑亭和茅屋。

【正门】我们现在所在的地方就是正门。在旁边我们可以看到一条小溪,这就是浣花溪。浣花溪属岷江水系,由温江西来,经苏坡桥至成都。在唐朝时浣花溪江阔水宽,能行大船。杜甫诗中写道“窗含西岭千秋雪,门泊东吴万里船”,就是描绘浣花溪当年的繁忙景象。浣花溪其名的由来还有一个与她秀美的自然景观相吻合的故事。唐代,浣花溪畔住着一位贫家女子,笃信佛教,是位虔诚的居士。有天晚上,她梦见仙人给了一颗宝珠,醒来之后便有了身孕,这位做梦的妇女次年四月初九生下了一个女孩,这女孩后来被做做“任氏”。任氏长大后,也像母亲一样礼佛信教。有一天,任氏在浣花溪边洗衣服,一个浑身长满恶疮的和尚要求溪边洗衣服的妇女们给他洗那件污秽不堪、沾满脓血的袈裟,一同洗衣的妇女们都不肯,只有任氏欣然答应。当任氏把僧袍放进溪水搓洗时,奇迹发生了——只见她每漂衣一次,便有一朵朵莲花,随手而出,漂满小溪。人们无不惊异,和尚却早已不知去向。当地人于是将这条小溪命名为“浣花溪”。而浣花溪的真实得名是源于成都的蜀锦。灿若云霞的蜀锦在织成之前,必须放到水里洗濯,称为濯锦;而流经成都的两江水质清澈,是濯锦的上佳选择。于是这里的河流都和锦有了关系,比如“锦江”,其实就是濯锦之江的简称。至于浣花溪,也是濯锦的产物——一匹匹织着花朵的锦在溪水里洗濯,不就如同浣花了吗?“浣花溪水水西头,主人为卜林塘幽”,这就是杜甫抵达成都后写下和浣花溪有关的诗句。此后,浣花溪民不断以变幻多姿的形象和细节出现在老杜的作品里,这条灵性的河,它给老杜带来了安静、优雅和灵感:“万里桥西一草堂,百花潭水即沧浪”;“细雨鱼儿出,微风燕子斜”…

照壁是中式建筑特有的东西,依寺观、祠庙而建,在建筑群与原野之间,形成一道屏障,它和中国人“花看半开,洒醉微醺”的处世方法和审美情调相辅相成——有了照壁,门内的景致就不会被一览无余,增加了景观的纵深感和神秘感。

正门正中有一匾额,上书“草堂”二字,是清代康熙第十七子,雍正皇帝之弟果亲王允礼的手笔。门两侧还有一副对联:“万里桥西宅,百花潭北庄。”万里桥即今成都的老南门大桥,三国时,蜀国费礻韦出使东吴,诸葛亮亲送到桥头。费礻韦深感此行联吴抗魏,任重道远,临别时对诸葛亮说:万里之行,始于此桥,由是此桥被称作万里桥。杜诗中的“百花潭”并非今天的成都百花潭,专家考证,可能在今草堂南面、浣花溪上游的龙爪堰一带。(今百花潭是清末成都知府黄云鹄听信当地人之言所误指)。“万里桥西宅,百花潭北庄”,十颗简洁的汉字,准确绘出了杜甫草堂的地理坐标。在这个坐标圆点上,浓缩了一个旷世逸才最重要的三年零九个月,也浓缩了一部芳华绝代的中国文学史。

【大廨】大廨是草堂中轴线上的第二重建筑。“廨”是官署,古代官吏办公的地方。由于杜甫曾做过左拾遗、检校工部员外郎,后人出于尊崇,将这重建筑作了如此命名。安放于大廨厅中央的杜甫塑像,出自出中央美术学院雕塑系教授钱绍武之手。这尊铜像呈跪姿,身材精瘦,以较为抽象和夸张的艺术造型,来表现诗人饱经忧患的一生和他忧国忧民的情怀。我们在此驻足凝视,似乎感到时光己经倒流回一千二百多年前,诗人正漂泊在江河之上,他跪立船头,手抚诗卷,头部微仰,双眉紧蹙,仿佛仍在向苍天悲怆地发问“乾坤含疮痍,忧虞何时毕”的沉重慨叹。这一尊感人至深的塑像,不但外观极为传神,内涵也无比厚重。透过塑像那单薄赢弱的身骨,杜甫一生饱经忧患、贫病交困、郁郁不得志的不幸经历,便已历历如在眼前。再看他那低首捋须、沉思苦吟的神态,诗人忧国忧民的眷眷情怀,更是被表现得淋漓尽致。大家可以用手摸摸大诗人,顺便带回点诗人般的灵气和才气…在1986年,一位伟人曾在此触目相视,久久不愿离去。感慨很深,大家可能都猜到他是谁了,他就是我们中国改革开放的总设计师邓小平。

ps:1、左拾遗:主要职责是规谏皇帝、举荐人才,相当于今天的人事部、组织部职员)2、检校工部员外郎:“工部”为中国封建时代中央官署六部之一,掌管各项工程、工匠、屯田、水利、交通等政令,类似于今天的水利部、交通部

杜甫,字子美,号少陵,公元720xx年出生于河南巩县,770年因贫病交困,死于湖南湘江的一条船上。杜甫生活在唐王朝由盛到衰的转折时期,经历了玄宗、肃宗、代宗三朝。由于他具有“致君尧舜上”的远大政治抱负,却始终得不到重用,一生颠沛流离,饱经忧患,因此,能更深刻地认识到当时社会存在的种种矛盾和弊端,体验到下层百姓生活的艰辛和困苦,并用诗歌把这一切反映了出来。他传世的1400多首诗,大都是这种反映现实、忧国忧民的不朽作品。如“三吏三别”、《兵车行》、《丽人行》、《自京赴奉先县咏怀》等等都是具有代表性的名篇。因为杜甫有着深沉而博大的思君、忧国、爱民的情怀,还因为他的诗歌代表着中国古典诗歌创作的最高成就,所以后世把他尊为“诗圣”。

1958年毛泽东游览了杜甫草堂时,对后人凭吊杜甫草堂的诗句石刻看得十分仔细,盛赞杜诗是“政治诗”。他对大廨前这副清代学者顾复初的名联表现出了浓厚的兴趣。上联“异代不同时,问如此江山龙蜷虎卧几诗客。”意思是:我(作者)与你(杜甫)生活在不同的朝代,试问这人杰地灵的神州河山,古往今来,在众多诗人墨客中,能有几个像你我这样才华横溢、立志报国?但却不能为世所重,只能如蜷龙卧虎,不得伸展凌云壮志!下联“先生亦流寓,有长留天地月白风清一草堂。”是说:您杜少陵先生和我一样,也是流寓作客在蜀中,但您却留下了这座伴随着明月清风而流芳千古的草堂,与天地共存。言外之意是同为流寓,我的命运更为不幸,什么也没留给后人,身后只能是形销而迹灭了。可是作者却没有想到,正是因为撰写了这副对联,所以他的名字竟得与草堂共存。这副对联写得非常含蓄婉致而耐人寻味。毛泽东同志游览草堂时在这里仔细观赏,久久沉思。郭沫若则称赞它是“句丽词清,格高调永”。

大门两侧是一副著名的集古杜句联。“吏情更觉沧州远,诗卷长留天地间。”上联出自于杜诗《曲江对酒》,下联出自《送孔巢父谢病归游江东》。上下联分别借用杜诗,从匡世济民的思想情操和彪炳天地的诗歌成就两方面褒扬了杜甫,言简意赅。“杜陵落笔伤豺虎,爱国孤悰薄斗牛。”这是叶剑英同志1960年3月参观草堂时所赋绝句的前两句。上联借用杜甫赞美李白的诗句“笔落惊风雨,诗成泣鬼神”赞美杜甫。下联指杜甫一生忧国忧民,虽受排斥,却至死不悔,他那独有的满腔爱国热情,忠义正气,直冲霄汉,逼近斗牛。(斗牛是星宿的名称)“挺身艰难际,张目视寇仇。”这是张爱萍借用杜诗赞美杜甫爱憎分明,在国家艰难时敢于挺身而出的精神。

大廨内还可以看到杜甫草堂全景图。杜甫于公元765年春天离开成都,顺长江向东飘泊。诗人离去不久,草堂便毁损颓败。五代时,诗人韦庄在成都做前蜀政权的宰相,他寻找到的草堂遗址,便“重结茅屋”来表达对杜甫的怀念之情。北宋元丰年间,成都知府吕大防再次重修,并把杜甫像画在墙壁上,使草堂具有了纪念祠堂的性质。以后历代,草堂多次重修,其中最大的两次,是在明代弘治十三年(公元1520xx年)和清代嘉庆十六年(公元1820xx年),基本上奠定了今日草堂的规模和布局。经过一千多年的演变,当年的草堂故居,已成为今天供人们瞻仰、凭吊“诗圣”的纪念性建筑群。建筑格局以一条中轴线贯穿始终,主体建筑从正门、大廨、诗史堂、柴门到工部祠都在这条线上,两旁以对称的附属建筑相配,其间又有溪流萦回,小桥相连,竹树掩映,显得既庄重肃穆,又清幽雅洁。

【诗史堂】穿过大廨,我们便来到了草堂的主厅——诗史堂。杜甫生活在唐王朝由盛到衰的转折时期,战乱的时局把他卷入颠沛流离的人群中,使他真实而深刻地接触和认识了当时的种种社会景象。他忧国忧时,挥毫赋诗,直书情怀。留传至今的一千四百五十多首诗歌,思想与艺术造诣极高,对中国文学的发展产生了深远的影响,他的诗作也反映了唐朝转折时期的社会动荡,民间疾苦,读其诗,如同读一部唐王朝由盛转衰的历史,他的诗被后世誉为“诗史”。他是我国诗坛承先启后,继往开来的集大成者,最伟大的现实主义诗人,他也被尊为“诗圣”。“诗有千秋,南来寻丞相祠堂,一样大名垂宇宙。桥通万里,东去问襄阳耆旧,几人相忆在江楼。”此联以杜甫的文章道德比诸葛亮的文治武功,颂扬杜甫象诸葛亮一样,英明永垂天地,也表达了对杜诗成就的崇敬和追怀先贤的感情。耆旧,是指德高望重的老人。大厅正中有著名雕塑家刘开渠先生以写实手法雕塑的杜甫胸像,微蹙的眉宇,深沉的目光,以及冷峻的嘴角,准确而凝练的刻画出诗人忧虑国家民族命运的拳拳赤子之心。塑像两侧的楹柱上,悬有朱德同志1957年参观草堂时题写的对联:“草堂留后世,诗圣著千秋。”表达了朱老总对诗圣的崇敬和对草堂名胜的热爱与关怀。

大厅的东壁有陈毅同志所题对联:“新松恨不高千尺,恶竹应须斩万竿。”此联出自于杜诗,诗人用比兴手法,以松代表美好事物,以恶竹代表腐朽势力,希望代表美好事物的松树快快成长,对代表邪恶的恶竹则主张毫不留情的展出干净。陈毅同志在庐山会议和文革期间多次题写该联,希望正确的思想得到发扬,阻碍我国发展的思想得以遏止。表现了他爱憎分明,惩恶扬善的高尚情操。中间立放的是民间艺人所塑的杜甫的像.大家可能会问这里的大圆桌是做什么的。以前的文人墨客来瞻仰杜甫时,就在这里铺纸摆砚,吟诗作对,纪念诗圣。再来看西壁的对联。这是郭沫若老先生用狂草字体题写的对联。大家认得出联上的字吗?“世上疮痍,诗中圣哲。民间疾苦,笔底波澜。”杜甫常在诗中以创痍喻战乱给社会带来的灾难。上联指杜甫用诗歌真实,生动的反映出“安史之乱”带来的社会的不幸以及唐朝的盛衰之变,不愧为诗中的圣哲。下联则赞扬诗人同情人民的苦难,写了不少反映人民悲惨境遇的不朽诗作,这些诗作震撼人心,犹如波涛巨澜。

在堂内东、西两侧,分别立放着民间艺人所塑的杜甫(东)、李白(西)泥像。大家一定会奇怪,为什么纪念杜甫的地方会有李白的塑像呢?李、杜同为唐代诗坛成就最为突出的大诗人,被郭沫若誉为“中国诗歌史上的双子星座”。虽然两人所走的创作道路不同——杜甫注重现实,李白则极其浪漫,但这并不妨碍他们成为感情真挚的好朋友。虽然他们相处的时间并不很长,后来又各自东西,再未见面,但都深深地系挂着对方,特别是杜甫,始终对李白充满敬意,在其流传下来的诗篇中,怀念李白的就有十几首,首首都表达了对这位挚友的钦佩和思念。李杜交谊,可以说是文坛上千古传颂的一段佳话。鉴于这个原因,李白的塑像出现在纪念杜甫的地方,也就毫不足怪了。

【柴门】出诗史堂,我们看见一条小溪穿插在建筑群之间,上面有一座小石桥勾连交通。小桥左侧竹丛中,有“水槛”横跨溪上;过小桥,柴门迎面而开。水槛与柴门都是当年杜甫的草堂曾经有过的建筑,杜诗中有“新添水槛供垂钓”、“柴门不正逐江开”的描述。所谓“水槛”,就是搭在水亭上的木栏,“柴门”也不过是茅屋的篱笆门,可以说都是很简朴的,远不是我们今天看到的样子。现在的水槛与柴门,是后人重修草堂、扩大庭园时所造的象征性建筑,但我们仍可以睹物思人,想象出当年诗人在这里迎送客人或凭栏垂钓的情景。

门上匾额为著名画家潘天寿先生所书,柴门楹柱上悬挂着明人何宇度撰写、今人 诰补书的一副对联:“万丈光芒,信有文章惊海内;千年艳慕,犹劳车马驻江干。”“万丈光芒”出自韩愈《调张籍》:“李杜文章在,光焰万丈长”,这是韩愈对李白杜甫诗歌成就的高度评价。“信有文章惊海内,犹劳车马驻江干”出自杜甫《宾至》:“岂有文章惊海内,漫劳车马驻江干”,意思就是,我又没有文章名扬天下,何必劳烦你老人家的车马到这溪边来看望我?表面看起来是谦虚,骨里里却是难以自禁的郁闷和自负。而何宇度则巧妙地改“岂”为“信”,改“犹”为“漫”,将诗人的自谦之语变成了后人的赞誉之辞,十分精巧而绝妙。确实,正因为杜甫给我们留下了成就极高、震动海内外的不朽篇章,千百年来,才会赢得无数后人的尊崇与倾慕,到此凭吊其故居草堂胜迹。透过柴门,我们也看到了一个时代的才华和疾病。

【工部祠】工部祠是杜甫草堂的灵魂,里面供奉着杜甫塑像,因杜甫曾被授“检校工部员外郎”之衔,人称“杜工部”,所以这重殿作了如此命名。祠前有清代学者、书法家何绍基撰写的著名对联:“锦水春风公占却,草堂人日我归来。”落款为:咸丰甲寅人日由果州暂回省署次杜公祠题此学使道州何绍基。咸丰甲寅,即1854年,时距重修工部祠已经三十三年了。何绍基,湖南道州人,诗人,书法家,曾任四川学政,相当于现今的四川省教育厅厅长。人日,即农历正月初七(旧俗:正月初一为鸡,初二为狗,三猪,四羊,五牛,六马,七人)。老杜隐居草堂期间,时任蜀州(今四川崇州)刺史的好友高适普在公元761年的正月初七(人日)时写诗怀念杜甫:“人日题诗寄草堂,遥怜故人思故乡。”九年以后,杜甫已经离开成都,飘泊到湖南湘江,而高适已经去世。一天,他偶然从书箧中翻出这首诗,重新读到九年前故人的人日寄诗,联想到自己处于“亲朋无一字,老病有孤舟”的悲惨境地,不禁睹物生情,潸然泪下,于是写下了《追酬故高蜀州人日见寄》一诗,抒发了对故友的哀悼之情。从此、高、杜人日唱和的故事传为佳话。

何绍基是个饱读诗书的才子,对高、杜人日唱的雅事烂熟于胸。1854年,他从果州(今南充)主考归来,返蓉途中就构思女孩子这副对联。为了与对联中的人日归来相符,他抵达成都后没有回家,而是直奔草堂,特意在郊外住了一夜。第二天就是初七人日,他来到草堂一挥而就,写下了这副草堂里著名的对联。对联的高明在于,它既缅怀了杜甫,也隐然以杜甫的继承者自居。此联一出,引来文人墨客竞相模仿,此后,人日游草堂也成了成都一大风俗。

进入祠堂,正中为清代建塑的杜甫泥像,东西两侧陪祀的则是南宋诗人陆游和北宋诗人黄庭坚。为什么要塑黄、陆像来配杜甫像呢?工部祠祭祀的当然是杜甫,他是草堂的主人,这时曾有过他的生活和他的诗。但按我们祖先的习惯,祭祀某个大伟人大名人的祠堂,往往得拉一两个和大伟人大名人有关名气稍小些的伟人名人坐在一起,接受后人的香火或顶礼膜拜——这叫做“配享”,也叫“配祭”。比如祭祀孔子的文庙,一般都有亚圣孟子和理学家朱熹的位置,而祭祀关羽的关帝庙,则少不了关平和周仓。那老杜以后的诗人,谁有资格坐在他老人家的身边,一起享受这千载以降的香火呢?祠内清人钱保塘的一副对联“荒江结屋公千古,异代升堂宋两贤”已经揭晓了答案。对联意思是:当年在郊野溪畔筑茅屋而居的杜公是千古不朽的;与他生活在不同时代的黄、陆继承了他的衣钵,升堂而入室,成就显赫,堪称宋代的两位贤哲。宋两贤就是剑南诗派的代表南宋诗人陆游和江西诗派的代表北宋诗人黄庭坚,这在宋代诗歌中居于主流位置的两派,都曾深受杜甫的影响。其次,与杜甫一样,陆游和黄庭坚都是外乡人,同样和四川有不解的缘分。陆游原籍浙江山阴,但四川对这位爱国诗人而言,已经不仅是第二故乡的概念,更是他生命中最辉煌的一段记忆。江西人黄庭坚仕途不顺,被贬四川,曾在宜宾居住了好长一段时间,昔年他喝酒吟诗的流杯池,现已成为宜宾的一大景点。

【碑亭】在工部祠的东侧,有一座以茅草作顶的碑亭,上镌刻“少陵草堂”四个大字,其笔力浑厚,笔姿秀润,这是果亲王允礼所题,正门上的“草堂”二字就取自其中。爱新觉罗.果亲王允礼是清康熙皇帝第十七子,雍正皇帝之弟。雍正初,被封为多罗果郡王,以后又晋封为亲王,世称果亲王。允礼爱诗文,好书画,他于雍正十二年(734)赴泰宁,送 喇嘛回西藏,路经成都,拜谒草堂,题写了“少陵草堂”四字,后镌刻成碑。杜甫草堂为什么又叫“少陵草堂”呢?这是因为杜甫曾居于京兆(长安)杜陵这一带居住过。杜陵在长安城东南,原叫杜县,汉宣帝在此筑陵,才改名杜陵,在杜陵东南十余里有小陵,亦称少陵,为汉许皇后葬处。杜甫在诗中常自称“杜陵布衣”、“少陵野老”。因此后人亦称杜甫为“杜少陵”,杜甫草堂为少陵草堂。在没有重建茅屋时,人们将其作为茅屋的象征,在这摄影留念。少陵碑亭也因此成为草堂和成都一个象征性建筑。

【茅屋】我们由“少陵草堂”碑亭向北,过一座横跨溪流的小木桥,就可以看到一座茅草覆顶,黄泥涂壁的典型川西农居建筑。我们所看到的茅屋是1997年2月在茅屋遗址上恢复重建的。几株大树,一座简化了的此门,还有一眼水井,以及环绕的芭蕉和其他灌木,它们簇拥着一座川西民居式的茅屋。茅屋的正中为堂屋,左右为卧室,东头为厨房。每一间房都入进了相应的家具,桌椅、石磨、水缸等,园内则按杜甫写下的诗句“入门四松在”,“小径升堂旧不斜,五株桃树亦从遮”而种植了松树,桃树,还有菜畦和药圃以及水井都是在杜诗中多次提及的。大家可以进去参观,这石桌凳就是杜甫一家娱乐休闲的地方了。大家请看这棵楠木。杜甫非常喜欢爱这棵楠木,他枝繁叶茂,可以遮雨,避暑,诗人也常在树阴下吟诗。可一次暴风雨将这棵楠木连根拔起。诗人异常伤心,写下“我有新诗何处吟,草堂自此无颜色”的诗句。为了告慰诗圣在天之灵,现在草堂内四处都种上了楠木。楠木,松树和竹子是杜甫最喜欢的三种植物,也可由此看出诗圣刚直不阿,高风亮节。

【浣花祠】这浣花祠是为谁所建呢?又为何取这样一个富于诗意的名字?在我们在进大门之前介绍浣花溪时,曾述及一段充满神奇色彩的故事,说的是一位住在溪边的任姓姑娘,替一个长满癫疮的和尚浣洗又腥又臭的袈裟,浣花溪中便泛出了朵朵莲花。就是这位从小就不同寻常的任姑娘,后来做了一件青史留名的大事,成为一代巾帼英雄。据《新唐书)、《旧唐书)记载,任姑娘成人后,被当时镇蜀的西川节度使崔宁纳为妾。唐代宗大历三年(768年,距杜甫离开成都仅三年),崔宁奉召入朝,留下他的弟弟崔宽留守成都。泸州刺史杨子琳乘机发动叛乱,率精兵数千进犯成都,崔宽不能抵御,形势十分危急。在此紧要关头,任氏毅然拿出家财十万,招募勇士千人,由她亲自指挥终于击溃了叛军,使成都百姓免于涂炭。由于任氏保卫成都,维护统一有功,受到朝廷嘉奖,被封为“冀国夫人”。冀国夫人任氏保卫成都,名垂青史,受到人们的尊崇。后人为了纪念其功绩,便在其乡里的浣花溪畔为她建立祠宇,与杜甫草堂和梵安寺(今草堂寺)相邻,其祠称“冀国夫人祠”。但因任氏的出生和事迹与浣花溪有关,故人们多称她为“浣花夫人”,称其祠为“浣花祠”,这样反更亲切,也更具传奇色彩。现在的浣花祠,为清代重建,祠内原有浣花夫人泥塑像,惜乎毁于文革中。1982年,由四川省雕塑家赵叔同先生重塑浣花夫人像。塑像着重表现了这位女中豪杰英武果敢的气概,令人怀想起她亲率勇士保卫成都所建立的殊勋。祠内正殿两侧悬有清代大学者俞抛所撰,现代人江庸补书的一幅槛联:新、旧书不详冀国崇封,但传奋臂一呼,为夫子守城,代小郎破贼;三、四月历数成都盛事,且先邀头大会,以流筋佳节,作设帐良辰。此联构思巧妙,追古抚今,时空交错,文采飞扬,对仗工稳,堪称佳作。上联追述史实,赞誉浣花夫人的英雄事迹,是纵写;下联则记叙三、四月的邀头大会为成都游赏活动中之最盛者。

【花径和影壁】杜甫当年营建草堂,为美化环境,曾在堂前屋后遍植花果树木。杜甫客居草堂时,曾在《客至》诗中写道:“花径不曾缘客扫,蓬门今始为君开”,可见“花径”是一条两旁栽满花木,通向草堂的小路。当我们今天行走在这红墙夹道、藤花匐墙的“花径”时,依稀能想见杜诗描写的当年景色。在花径的东端入口处挂有由著名书法家沈尹默先生所书的“花径”一匾。门楹两旁,有郭沫若先生撰书的对联:“花学红绸舞,径开锦里春”。此联巧妙地将花径二字分别嵌入联首。上联意指草堂内迎风摇曳的似锦繁花,有如人们在欢跳红绸舞,下联则谓此花径可通向春色满园的草堂。

在影壁上用青花碎瓷镶嵌的“草堂”二字。清光绪三十四年(1908),四川劝业道(清光绪三十四年之后,各省陆续设置的一种官署名,其职责是掌管全省农工商业及交通事务)道尹周善培曾在草堂寺通草堂内墙上大书“草堂”二字,以碎瓷砌就,但在文革中被毁。今花径照壁上所嵌“草堂”二字,为其弟周竺君所书。作为草堂的标志之一,此处被称为“草堂影壁”,党和 毛泽东、朱德摄影留念。毛泽东有一幅照片,就是在这里拍摄的,他老人家反背着手,站在影壁前细细观看,因此他留给我们的只是他的背影――这是不多的几张毛老人家的背影照之一。

【大雅堂】与诗史堂和大廨这些已经存在了几百年的古董不同,大雅堂是20xx年才建成开放的。堂前正中的空地上,立了一尊杜甫铜像。他双眉紧皱,低着头,好像坐在高处俯看脚下。这是由著名雕塑家叶毓山创作的老杜像,取材于杜甫离开成都后的悲惨晚年。那时候,杜甫漂泊在今天的川东,他坐在江崖上,俯视着脚下的流水,他看到的情景,杜诗有云:“无边落木萧萧下,不尽长江滚滚来。”杜甫是我国诗歌发展史上的集大成者。既然是集大成者,那么他就必然有其源流,也有其传承。故此,大雅堂里集合了十十倍一诗人,他们和杜甫都有着千丝万缕的关系。他们是杜甫的战友、同伴、兄弟,他们都是中国诗歌史上绕不过去的高峰。他们是以下十二位不同时代的诗人。

屈原:战国时期的楚国诗人、政治家,代表诗句有:“路漫漫其修远兮,吾将上下而求索”;

陶潜(渊明):晋宋时期诗人,代表诗句有:“采菊东离下,悠然见南山”;

陈子昂:唐代文学家,四川射洪人。代表诗句:“前不见古人,后不见来者。念天地之悠悠,独怆然而涕下”;

王维:盛唐诗坛上与"诗仙"李白、"诗圣"杜甫鼎足而立的大诗人。代表诗句有:“劝君更进一杯酒,西出阳关无故人;独在异乡为异客,每逢佳节倍思亲”;

李白:盛唐诗坛高峰之巅的伟大诗人,被誉后“诗仙”。代表诗句有:“飞流直下三千尺,疑是银河落九天”;

白居易:盛唐诗坛的三大诗人之一。代表诗句有:“野火烧不尽,春风吹又生”;

李商隐:唐代诗人,代表诗句有:“夕阳无限好,只是近黄昏”;

苏轼:北宋著名文学家、书画家,四川眉山人。代表诗句有:“不识庐山真面目,只缘身在此山中”;

黄庭坚:北宋诗人、书法家。代表诗句有:“瑶草一何碧?春入武陵溪。溪上桃花无数,花上有黄鹂”;

陆游:南宋诗人,代表诗句有:“山重水复疑无路,柳暗花明又一村”;

李清照:南宋女词人,代表诗句有:“醉里插花花莫笑,可怜人似春将老”;

辛弃疾:南宋爱国词派的领袖和旗帜,代表诗句有:“稻花香里说丰年,听取蛙声一片”。

正中的墙壁则以平面的方式留给了草堂的主人杜甫,这是一幅大型磨漆壁画,长十六米,宽四米,足足有六十四个平方,相当于一间宽大的客厅的面积。这是迄今为止国内最大的磨漆壁画。杜甫被诗歌紧握的一生徐徐展开,它以色彩和图像的形式,把一个诗人的命运浓缩在这壁画上。

好了,杜甫草堂的参观游览到此结束,谢谢大家!

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